残酷なミノタウロス神話で有名なクノッソス宮殿の謎解き

ギリシア神話にはクレタ島の迷宮の話が登場する。それはクノッソス迷宮と伝えられ、空想の産物と思われていた。しかし、イギリスの考古学者アーサー・エヴァンスによって発掘され実在することが判明した。今回はクノッソス宮殿の謎を解き、われわれの想像以上に残酷だったミノタウロスの正体を考察する。

スポンサード リンク

クレタ島

クレタ島はギリシャ共和国南方の地中海に浮かぶ島。ギリシアの人々はクレタ島を「メガロニシ(大きな島)」と呼んでいる。

長さ260キロ、幅48キロ、エーゲ海の他の島と比べると群を抜いて大きな島で、海岸には松やナツメヤシの葉が広がっている。水は豊富で洞窟の鍾乳洞を育てている。ミノタウロスが産まれた背景にはこの独特な自然環境があったのだ。

クレタ島は、紀元前6000年の新石器時代から人の居住が始まっていた。紀元前2500年頃〜前1400年頃にわたって宮殿が建てられエーゲ海を中心に中近東まで外交や貿易網を広げエジプトとも親交を結んで栄えていた。この時代の支配者だったのがミノス王である。

今からおよそ5千年前には、クレタ島には文化的社会が築かれていた。巨大な宮殿や美しいフレスコ画も描かれている。ところがその文明は突然消滅してしまう。そして神話の断片だけが人々の記憶の中に残った。

神話ではこの島は強大な力を持つミノス王の国とされている。ミノス王は神々に不遜な態度をとることがあった。

ミノス王とミノタウロスの誕生

ミノス王とは神々の王ゼウスとエウローペーの子である。ヘーリオスの娘パーシパエーを妻とした。パーシパエーは神の血を引いているので不死身だったとも伝えられている。

ミノス王は神々に寵愛されている証としてオリュンポス十二神の一柱であるポセイドンから牡牛を送ってもらい、牡牛を生け贄として返上することを誓った。しかし、ミノス王は送られた牡牛が美しいと思い、違う牡牛と差し替えて生贄として献上した。

当然、ポセイドンは怒り、ミノス王の妻パーシパエーが牡牛を好きになるように仕向ける。

名工ダイダロスはパーシパエーが牡牛に近づけるように、中が空洞になった車輪付きの模型を作った。パーシパエーはその中に入って牡牛と交わり子供を産んだ。しかし、産まれた子供は怪物だったのである。

ギリシア神話に登場するクレータ島の王であるミノス王の妃が牡牛と交わって人身牛頭のミノタウロスが生まれたため、王が名工ダイダロスに迷宮を造らせて閉じ込める。やがて怪物と化したミノタウロスは、アテネの勇者テセウスにより退治される。

ミノタウロスとは

ミノタウロス(Minotaur)とはギリシァ神話に登場する、牛の頭と人間の体をもった半人半獣の怪物だ。頭は牛、肩から下は人体、歯は獲物を引き裂く獅子の牙を持ち、人間を喰らう怪物である。Minotaurの名前の由来は、クレタ島の王のミノス (Minos) と、雄牛を表わす(taur)の造語である。

海神ポセイドンが波からつくり出した雄牛と、クレタ島のミノス王の妃・パシパエのあいだに生まれた不義の子で、名前の意味は「ミノスの雄牛」「ミノス王の牛」である。

ミノタウロスが産まれたことを恥じたミノスは名工ダイダロスのつくった一度入ったら二度と生きて出られないという迷宮にミノタウロスを閉じ込めてしまう。この、部屋や通路が複雑に入り組んだ迷宮をラビリンスと名づけた。

やがて、クレタとアテネとの間で戦いが始まりクレタが勝つと、ミノスは賠償として9年ごとに毎年7人ずつの生贄を供出させ、この怪物に餌として与えた。ミノタウロスは、毎年、生贄としてアテナイから送られてきた七人の少年少女を、貪り食ったという。

アテネの王テセウスがミノタウロスを退治する

ミノタウロスを退治するテセウス

その恐怖の儀式に終止符を打ったのが、アテネの王テセウスだ。

このテセウスに、ミノス王の娘アリアドネが一目惚れした。クレタ島に乗りこんだテセウスに対し、ミノス王の娘アリアドネは、ひと巻きの糸玉をわたす。この糸をほどきながら進めば、迷宮を脱出するときに迷うことはないと教えたのだ。

テセウスは入り口に糸玉の端を結びつけ、テセウスは曲がりくねった通路をたどり暗く深い迷宮へと降りて行った。通路は岩伝いに地下へと続いていた。目眩がするほど曲がりくねる迷宮。怪物に出会った瞬間立ちすくむも短剣で刺殺し、糸を頼りに脱出する。テセウスはみごと、牛頭人体の怪物を退治することに成功したのだ。

このギリシア神話に出てくるクレタ島の迷宮がクノッソス宮殿だといわれる。この話は怪物ミノタウロスを退治するテセウスの英雄伝説なのである。

テセウスは、ポセイドンの子だともいわれる。だとすれば、彼は自分と関係が深いミノタウロスを、己の手で殺していることになるのだ。

クノッソス宮殿の発見

アーサー・エヴァンズ

今ではギリシャ最大の島、クレタ島のクノッソス宮殿がこの迷宮であり、紀元前3000年~前400年頃に栄えたミノス・ミケーネ文明の中心とされているだが、イギリスの考古学者アーサー・エヴァンズ(1851〜1941)が9世紀末から発掘を始めて宮殿を発見するまで史実とは見なされていなかった。

名家に生まれたエヴァンズは父親の影響で考古学に進んだ。父の友人であるシュリーマンが古代ギリシアの詩人ホメロスの叙事詩に登場するトロイア戦争の伝説に触発されてトロイア遺跡を発見したことに大きな刺激を受けた。自分も遺跡を見つけたいと思ったエヴァンズはクレタ島に赴いた。

もともとクレタ島にはローマ時代のコイン、ホメロス時代の陶器のかけらなど、エヴァンズにとって興味ある手がかりが沢山散らばっていた。発掘に向いた場所だったからエヴァンズが発掘に取り憑かれたのもうなずける。

エヴァンズがクノッソス宮殿を発見したとき、宮殿の装飾に牛のモチーフが多用されていたことから、伝説のミノス王の迷宮だと確信した。

マイケル・ヴェントリス

イギリスの建築家マイケル・ヴェントリスは、線文字Bがミノア独自の文字ではなくギリシア語の古い形のものであると気づいた。このことから火災は内戦で起きたものではなく、ミケーネ人がクレア島を占領したときに起きた可能性がでてきた。クノッソス宮殿は侵略者の司令部となったために、現存できたのかもしれない。

後日、線文字Bが記されていた粘土板は解析され、神々への供物や庶民の生活などが事細かに描かれていたことが分かった。

環境

クノッソス宮殿は青銅器時代に莫大な費用をつぎ込んで建設されたもののようだった。またミノアの文化は自由で独立しており、東地中海の文化に影響されていなかった。

共和制が敷かれた世界で、エジプトや中東のような巨大な遺跡は見つからない。どこを見ても権力者の印がない。残された絵を見ても全ての男性が平等に見える。唯一、空の玉座があるだけだ。宮殿というより集団が集うような場所だったように思える。

エヴァンスによると、クノッソスの人口は当時八万二千人で、世界一の大都市だったと推定している。地中海沿岸一体との貿易が活発だった。

クノッソス宮殿の外観

北側の入り口

クノッソス宮殿は居住区は2キロ四方。クレタ島の北岸、現在のヘラクリオン市の丘の上にある。宮殿自体は東西約170メートル、南北約180メートルの壮大な建築物。

最盛期のクノッソス宮殿の広さはおよそ70万平方メートル、バッキンガム宮殿の3倍以上に及んだ。道路も造られていた。

クノッソス宮殿の内部は、水洗トイレ・開き戸・下水設備などミノア人が始めて創り出した独創的な設備があった。

王座の間

中庭を持つ宮殿の中心部は王の居住区と考えられており、黒と赤の列柱が並ぶ部屋は採光や通風を考慮した吹き抜けだった。広大な中庭は宗教儀式に使われていたと思われる。

斜面に建てたので東側は5階建て、西側は3〜4階建てなど複雑な造りである。部屋数は1階だけで百数十の部屋があり、全室1500室を超えていたそうだ。なんという巨大で複雑な構造の建物だろうか。

居住区の中には大小の宮殿・大邸宅があった。東側には川があり6キロほどで海岸に達する。

広い中庭を囲んで3、4階まで1500もの小部屋で区切られ、入り組んだ廊下や階段により極めて複雑な構造をしている。王の間から宝庫、書庫、食料庫、浴室、水洗トイレまであり、地下には路溝も張り巡らされている。いかにも迷路のようだが、換気や採光のために必要だったらしい。

真相

高度な建築技術の謎

クノッソスが当時、世界最大の都市だったといわれるのに、防御のための城壁さえないのは謎だ。宮殿が建築されたのは3500年前だが、なぜそれほど古くから高度な建築技術を持ち、どこから学んだのだろうか?

滅亡説の不思議

紀元前1450年頃に突然滅亡したのは不可解である。ギリシア人による破壊や、クレタ人の反乱、また100キロ北のサントリニ島の火山爆発を原因とする説があるが、その距離と文明崩壊の時期のずれから反論が上がっている。

ミノタウロスの正体はミノス王説

ミノタウロスが何者なのかはわからないが、動物は基本的に種が異なる生物と子供を作れない。当然、ミノタウロスは獣人ではなく誰か人間を現したものだと考えるのが穏当だ。

神聖視された牛の頭を祭でかぶったミノス王がミノタウロスとする説もある。ミノタウロスはもともと、力のシンボルであり崇拝されていた。祭りのさいには王が牛の頭をかぶり牛神の姿になって現れた。このことからミノタウロスとは牛神になった王だったと考えられている。

迷宮を意味するラビリンスという言葉は、ラビュリス(両刃の斧)という語から発生していて、両刃の斧はクレタ島で宗教的なシンボルとされていた。宮殿の中には両刃の斧を飾った部屋がある。宮殿は迷宮のように入り組んでおり中々外に出られない。そのようなイメージがあるから、ラビュリントスからラビリンスという言葉に変化したといわれる。

宗教的シンボルと牛の頭と迷宮が伝説を生み出し、そのうち奥深くに怪物が棲むと噂されるようになったのかもしれない。

牛越え競技から生まれた物語説

また、宮殿では牛と若者が戦っている壁画が見つかっている。これは牛を飛び越える競技を描いたもので、当時非常に危険だったことから、ミノタウロスの物語が生まれたとする説もある。

死者の宮殿説

ドイツの地質学者H・ウンダーリヒは「死者の宮殿」だと主張した。玉座の間は普通外国の使節が王に会見する部屋なのに、風も光も届かない地下の迷宮にあるのはおかしいというのである。

確かに、玉座は光が届き周囲が見渡せそうな高い場所にあるのが普通である。周囲から隔離されたような場所にあるのは実用的でない。

また、クノッソス宮殿に使われている素材が磨り減りやすい石膏であるにも関わらず摩耗がないのは、そもそも人が住んでいなかったからだろうと疑問を投げかけた。

神殿説

王宮ではなく、神殿として機能していたのではないかという説もある。この説であれば閉ざされた王座の環境も、万が一に備えての武器がないもの、周りに城壁や神殿がなかったことの説明もつく。

戦争が想定されていない構造は、王が住むところではなく、儀式に使う神殿だった可能性を指摘する学者も多い。

子供を生贄にした説

最後に諸説の中で最も信憑性が高いと思われる残酷な説をご紹介しよう。

1979年、ブリストル大学の古典考古学教授ピーター・ウォレンは、クノッソス宮殿の地下室で子供の部屋と骨を発見した。子供の部屋では人骨と人骨の断片371個が見つかり、調査の結果79個に鋭利な刃物で切った跡、さらに他にも次々に刃物の傷跡が見つかった。

骨の専門家ルイス・ビンフォードによると刃物の跡は死体をバラバラにするのではなく、肉を削いだときについたものだと考えた。つまり、埋葬のためではなく儀式のための行為と、子供の肉を料理して食べていたことを示唆していた。動物とともに調理され祭祀の宴で食されたのだ。

この説が正しければ、クノッソス宮殿には確かに怪物がいたことになる。しかし、その怪物は私たちと同じ人間であり、ミノタウロス以上に邪悪な存在だったのだ。

オーパーツが展示されている場所

イラクリオン古代博物館:クレタ島イラクリオの中心にあるエレフテリアス広場から徒歩で5分

参考文献
  • 驚異のオーパーツ!超古代ミステリー
  • 世界の神獣・モンスターがよく分かる本
  • BS世界のドキュメンタリー 神話の生きる島 クレタ
  • 神々の足跡
  • 古代文明の謎はどこまで解けたか
  • クノッソス – Wikipedia
  • 古代の謎未解決ファイル

RECOMMEND

TO TOP