エジプトのオーパーツ「アレクサンドリアの大灯台」の謎を解明

アレクサンドリアの大灯台

アレクサンドリアの灯台とは、紀元前3世紀ごろ、エジプトの地中海に面した港湾都市アレクサンドリア近くのファロス島に建てられた巨大灯台である。一説によると高さは120メートル以上で、3階建てであった。

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アレクサンドリアの灯台の伝説

闇夜の海に光を照らす灯火室には巨大な鏡が設置され、その光は50キロ先の沖合からでも見ることができた。巨大な鏡で太陽光を集め、反射させることで160キロ先の船を焼くことができたという。

3次元再構成

発見

ファロスの灯台伝説が作り話ではなかったことを証明する出来事が起こる。一九九五年にフランス人考古学者ジャン・イブ・アンプルールらが防波堤工事の最中、かつてファロスの灯台があった付近の海底に、二〇〇〇点を超える彫像や建築資材の一部を発見した。

すぐに、エジプト政府を中心とした引き揚げ作業が始まった。すると、灯台に用いられたと思われる石像などが、次々と地上に姿を現した。

灯台の1階部分に用いられたと推測される重さ10トンの花崗岩をはじめ、頭部だけで約38トンもある石像、ヒエログリフ(象形文字)が刻まれた高さ6メートルで重さ318トンのオベリスクなど、次々と巨大建造物の存在を示す遺物が引き揚げられている。頭部の彫像から像は13メートルはあったのではないかと推測された。

まさにファロスの灯台の大きさを彷彿とさせるスケールであった。

灯台の高さ

灯台の高さは、高さが120メートルとも130メートルともいわれ、研究者のなかには180メートルに達していたと唱える者もいるほどの巨大な灯台だった。130メートルであればビル30階に相当する。現在の日本でいうと浅草タワーと同じくらいの高さである。

現代の建築技術を駆使しても、これほどの建築物をつくるには、鉄骨を使用しなければ不可能だという。しかし、アレクサンドリアの大灯台は石を積み上げただけである。

外観は3層からなっていたようだ。第一層は高さ71メートルの四角柱で、第二層は高さ34メートルの八角柱、第三層は高さ9メートルの円柱で、この場所に光源があったとされる。

灯台の外観

基礎として石の壇を築き、その上に灯台を建てた。大部分は大理石でつくられ、下層は方形、中層は八角形、頂部は円筒形になっていた。上の方につれて細くなっている。

アレキサンドリアの造幣局によって打たれた現存するローマのコインには、建物の四隅にトリトンの像が置かれ、その上にポセイドンまたはゼウスの像が立っていたことが示唆されている。

File:PhareAlexandrie.jpg – Wikipedia

屋根には太陽神ヘリオスの青銅像が取り付けられた。アレクサンドロス大王がモデルだともいわれている。

円筒形の頂部は八本の石柱で囲まれており、そのなかに火桶が設置され燃えていたという。燃料は木材・木炭と推測されている。

以下の動画は、水中考古学者フランクゴディオの最新の理論に基づいた、アレクサンドリアの古代都市と港を描いたものだそうだ。

灯台の機能

第一層と第二層の内部の真ん中を螺旋状のスロープが登っていた。これは光源の燃料の重油を積んだ荷車を引く家畜の通り道と考えられている。

第一層のスロープの外側に三〇〇以上もの小部屋が設けられていた。これは倉庫や天文観測、兵士の駐屯所だったようだ。アレクサンドリアを守る砦としても機能していたのだ。

灯台の火は三六〇度回転できた。火の背後にある反射鏡に光を集めて投光させたために、夜間五〇キロメートル以上の先からでも見ることができたという。

反射鏡は青銅鏡を磨いたものか、ガラスと透き通った石(レンズという説もある)を利用したともいわれる。現存する最古のレンズは紀元前700年ごろの古代ニネヴェの遺跡から発見された直径約3.8cm、焦点距離約11.4cmの研磨された水晶平凸レンズだそうで、太陽熱を集めるものだったようだ。(メガネの歴史|株式会社アサヒオプティカル

アッシリアの水晶レンズ – Wikipedia

紀元前700年に水晶レンズがあったのなら、紀元前300年には既にレンズが使われていたとしても不自然ではない。レンズを使用したのなら、光を増幅し遠くまで届けたという説も信憑性が高くなる。

灯台の建設費用

土地面積730坪で階数25階の鉄筋コンクリートの建築費用が約79億円かかると仮定すると、アレクサンドリアの灯台は30階建てに相当するから、80億円以上はかかる計算になる。

歴史

紀元前三〇〇年頃にアレクサンドリアの灯台の建設がスタート。プトレマイオス一世が海の通航の安全のために二〇年かけて造らせた。完成したのは紀元前二五〇年という説がある。

塔は石灰岩の固体ブロックで建設されたというが、石灰岩を使うと塔の自重で崩壊する可能性が高い。付近にあるピンクの花崗岩のほうが強度が高いので、こちらを使ったとする説のほうが信憑性が高くなる。

ファロスの灯台は、幾度となく襲った地震により壊滅的なダメージを受け続ける。796年の大地震でついに崩壊。1303年のさらなる大地震で、灯台の基礎部分からすべてが崩壊し、地上から姿を消してしまう。

アレクサンドロス大王

アレクサンドロス大王はファロスの灯台の威容を、自身の目で見てはいない。遠征中に死亡してしまい、建設の遺志を受け継いだのは、彼の側近の一人で、後にクレオパトラ7世にもつながる系譜を持つプトレマイオス1世だった。

アレクサンドロス大王は各地に遠征する途中に、ナイル川河口のデルタ沿岸に大艦隊を停泊させるめぼしい港がないという理由から、アレクサンドリアの建設に着手した。都市が完成したのはプトレマイオス二世の時代である。彼は多くの船が往来するようになった紀元前279年ごろに灯台の建設を計画し、建築家ソストラストに命じて灯台を造らせたのだ。

真相

外敵の攻撃により倒壊説

アレクサンドリアの灯台は地震による倒壊説が有力視されているが他に原因があると考えられる。

アレクサンドリアは外敵からの攻撃で大きな被害を受けていた。灯台は軍事的な機能を持つために、破壊の対象となることは考えられる。軍事要塞の塔ということであれば敵が破壊したという説も信憑性は高くなる。

財宝説により倒壊

神聖ローマ帝国とイスラム教徒との戦いが始まった当時、神聖ローマ皇帝は灯台を壊すために、灯台の下に財宝があるというデマをイスラム教徒に流し、取り壊しを行わせたという説がある。強固な灯台がゆえに、乗り込んで壊すのは困難だと思ったのだろう。

灯台はライフラインだった説

堤防の一部が飲料水を送る水道になっており、水は灯台の下にある大きな貯水槽にたくわえられていたという。塔の内部は3百以上の兵士用の部屋があったとされているし、兵士用にも水を汲み上げていたのだろうか。そう考えると、生活に必須なインフラ設備だったとしても不自然ではない。

その他、建設当時は灯台と考えておらず、3世紀ごろから灯台として使用されたという説もある。

オーパーツがあった場所

カイトベイ要塞:アレキサンドリア中央駅(マスル駅)から車で約15分

参考文献
  • オーパーツ&超古代ミステリー
  • 「古代遺跡の謎」未解決ファイル
  • 神々の足跡

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