ロードス島の巨像は、ギリシアの古代地中海で最も重要な貿易港のそばに立っていたとされる32メートルの巨大な太陽神ヘリオスの像である。この巨像は現存せず、古代世界の七不思議の一つとして知られている。
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目次
ロードス島
ロードス島はギリシアのドデカネス諸島最大の島で、トルコの沿岸から19キロメートル沖にある。1988年には「ロードス島の中世都市」として世界遺産に登録された。
紀元前408年に町がつくられ、地中海交易の中心地として栄えたが、ローマに占領され衰退した。14世紀、ヨハネ騎士団が移住してくると再び復興した。16世紀オスマン帝国の襲撃を受け支配下に置かれるようになった。
巨像の外観
ロードス島の巨像の頭には陽光を表した火炎のような冠をつけ、片方の手には船を導くタイマツを持っていたとされる。ヘリオスの巨像を描いた絵には裸でケープを巻いているか、腰布姿をしている。
胴回りが18メートルでももの太さが3.3メートル、足首だけでも1.5メートルあった。巨像の指は人間が手を回しても届かないほど太かったそうだ。
ヘリオスの巨像には螺旋階段が設けられており、空洞になった目の所まで続いていた。夜にはそこにある台に火が点され、外からはまるでヘリオスの目が光を放っているかのように見えたという。遠方から見た像は多くの人を恐れさせ威光を放っていたように見えただろう。
巨像の時期と場所
巨像は紀元前304年に起こったマケドニア軍の侵攻を機に建設されたと伝わる。エジプトのプトレマイオス1世がロードス島に援軍を送ったため、島民が勝利を収めた。
マケドニア軍の撃退に成功したことを神に感謝するために、住民は太陽神ヘリオスを模した巨像を建設したという。
巨像の設置場所は港の入り口にあり、像は海を向いて大股を広げ港をまたぐように建っていた。
首都の港にヘリオスの像があったと信じられているが、像の位置については分からない。港周辺の神殿にはヘリオス神が祀られていた。ヘリオスの巨像は実はこの神殿の中にあったとする説もある。
ロードス島の巨像を作ったカーレス
ロードス島の巨像は、ブロンズを使用して地元の彫刻家カーレス(Chares)によって作られた。伝承によると像のごく小さな傷を指摘されて自害したというから、一見気難しそうな印象を受ける。
カーレスが完璧主義でデリケートなメンタルの持ち主だったと考えると、巨像は繊細で美しく建造されたのだろうと思える。
カーレスの師リュシッポスは、まるで生きているかのように描く様式を彫像に採用することで、躍動感のある動きを表現できると弟子を励ましたそうである。
素材
港のそばで大理石の台座に立つ像は、鉄の骨組みに青銅の薄板と青銅の形材を使って建造された。キプロス島人の兵士が置いていった武器や装備の真鍮や鉄を使って立てられた。港の防波堤のどこか、または防波堤を見下ろす丘の上に立っていたと考えられている。
構築のスピード
ローマのプリニウスの記述によると、首都ロードスは3000体もの彫像を誇っていたそうである。普通は考えられない膨大な数である。
ヘリオスの巨像と呼ばれるようになる青銅像の建造は、前292年に始まり完成までに12年の歳月がかかっている。つまり1年に2.75メートルずつ高くしていったことになる。意外と時間がかかっているように感じるが、製作工程はしっかりしたものだった。
ロードス島の巨像の建造方法
出典:todo-matrix.blog.so-net.ne.jp:So-netブログ
この像は、太陽神ヘーリオスをかたどったもので、鉄製の骨組みを大きな岩で固定し、真鍮で覆った後、大理石とブロンズで仕上げられていた。
巨像は大理石の台座の上に、足から組み立てはじめ、少しずつ高くしていった。
ギリシアの歴史家ストラボンの記述によると、建造には重さ500タラント(12.9トン)の青銅と300タラント(7.7トン)の鉄が使われたという。
青銅は銅と錫(すず)を混ぜて溶かして作る。厳しい気象条件でも摩滅しにくいので、港付近のように塩気を含んだ大気にさらされる像にはうってつけの材料である。
大きな像に青銅を流し込むのは難しかったので、鋳造した型材と薄板を使って組み立てていった。
製作プロセス
- 銅鉱石を採掘し炉で銅を抽出する
- 銅と錫を正しい割合で混ぜ炉で溶かす
- 鉄製の大きなひしゃくを使って鋳型へ運ぶ
- 金属細工師が青銅の溶湯(ようとう)を形の異なる鋳型に流し込む
- 金属を冷やして外側の表面を研磨する
- 像の下部を安定させるために重い石材を使い、その周りを鉄の骨組みと青銅の型材で覆う
- 薄く整えた板材を銅製の鋲で鉄の骨組みに固定する
カーレスは小さな模型を造り、その比率を割り出し巨像の寸法に拡大したと考えられる。
真相
倒壊の真相
ロードス島の巨像は世界の七不思議の中でもっとも短命で、56年しか存在していなかった。西暦前228年または226年の大地震により膝のところで折れて地面に倒れ崩壊してしまったとされる。
ロードス島民が、地震の原因は太陽神の怒りだと考えたため、再建は試みられなかった。砕けた巨像は約800年間、地面に散らばっていて、当時の観光の名物になった。
ビザンチン帝国の修道士テオファネスの年代記によると、崩壊した場所に散乱した残骸が残っていたが、巨像はエデッサのユダヤ人商人に売られたという。後654年、残っていた青銅片をシリアから来た商人に売却し、商人が900頭のラクダの背に載せて運び去ってしまったから、現在では巨像の存在を示す痕跡は無くなってしまった。
三本脚説
この像の姿を記録している浮き彫りに、裸の男から垂れたマントが地面に着いている像がある。つまり、両足とマントの3点で巨像を支えていたのではないだろうか?
3箇所であれば、安定性が増すから、像にマントを着けた理由も説明できる。後述するが、再現プロジェクトでも三本脚が採用されている。
内部に存在した説
作家のレイノルド・ヒギンスは、港に像を建設するのは巨像が崩壊した際に残骸が港に散らばるから、港には建設しないだろうと仮説を唱えた。古代の記録に「巨像が倒壊したときに、多くの家屋が壊れた」とあるから、家屋がある内部に建立されたのではないかと指摘している。
港をまたいだのは嘘か?
ヘリオス像が33メートルの高さだとすると、股下は10メートルくらいになる。当時の大型帆船は帆先まで入れると20メートル以上の高さになったと推測される。つまり、股下をくぐるのは不可能なのだ。
港とまたぐ2つの岬の間は60メートルほどの幅がある。仮に巨像が港をまたいでいたとすると、像の高さは50メートルよりも高くなるはずだ。
そもそも、船が出入りする場所に船の通航を妨げるようなものは建造しないのではないか。
1980年代末に巨像のかけらが岸に近い海底で見つかったという話が出たが、後に間違いだと判明した。最近になってドイツ人のウースラ・ベダー博士が、現在モンテスミスの丘の土台になっているのは、巨像が立っていた土台ではないかと主張した。
巨像は現存しないので、イメージが沸かないと思われたが、最近になって巨像が再現されるという計画が持ち上がる。
ロードス島の巨像、再現プロジェクト
2015年に巨像を再現するプロジェクトが発表された。ギリシャが中心となり全長150メートル、2つの浅瀬に跨る当時のものより遥かに高い像を建設予定だという。オリジナルとは異なり、図書館・博物館やショップなどが準備されるという。以下の動画でイメージを確認できる。
再現イメージでは、マントが地面に着き三本脚となっているから、安定性はありそうだ。
ソーラーパネルによりビーコンの灯台に電力が供給され、35マイル離れたトルコの海岸からも見ることができる予定。建設化のアリス・A・パラスはタイムズでロードス島の巨像の伝統的な歴史と文化的意義を復活させたいと語る。
プロジェクトの主な目的は、ロードスを「地図に戻し」、観光を大幅に後押しさせ、その過程で新しい雇用機会と地域経済と国民経済の成長を提供すること。予測では、20億ユーロを超える収益の増加と、訪問者数の150%の増加が見込まれているそうだ。
Project Launched to Revive the Colossus of Rhodes, Wonder of the Ancient World | Ancient Origins
不安定な形なので、昔のように地震によって倒壊する危険性はないのか心配になるが、経済破綻を再生すべく観光客は呼び込めそうである。
オーパーツがあったとされる場所
トルコ(イスタンブール)からロドス島へ飛行機で50分
ヨーロッパ内都市で乗り継ぎアテネから空路1時間
参考文献
- 絶対に見られない世界の秘宝99
- 世界遺産ミステリー
- 世界遺産 封印されたミステリー
- 知っておきたい伝説の秘境・魔境・古代文明