ブッダの教えわかる!お釈迦様の言葉と思考を簡単に解説

お釈迦様

お釈迦様の教えを5分で分かるように解説。オリジナルの教えとはどういったものだったのか。

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お釈迦様の生涯

お釈迦様の生涯を簡単に説明しよう。まずは、ブッダと釈迦の違いからだ。

ブッダとは悟りを得た人のことを指し、釈迦とは仏教の開祖であるゴータマ・シッダッタを指す。つまり、お釈迦様とは個人名となる。

お釈迦様の本名は、ゴータマ・シッダッタという。ネパールのルンビニー園で王子として生まれたが、突然全てを捨て29歳のときに出家。修行中に苦行は無意味ねぇじゃんと悟り、修行方法をあっさり瞑想に切り替え、35歳のときブッダガヤーで悟ってブッダになる。80歳になりクシナガラで横になって入滅するまで弟子達と教えを説いてまわった。入滅後、弟子達はお釈迦様の教えを後世に残した。

なぜ日本には色々な仏教があるのか?

現在日本に伝えられている仏教は、純粋な釈迦の教えではない。

もともと釈迦の教えはインドで発祥し、中国に伝えられ日本に入ってきた。そして沢山の宗派ができた。江戸時代の思想史家である富永仲基氏によると、経典は時間が経つと次々に世代の人々が創作を加えていくからオリジナルではないという(加上の説)。

仏教にはスリランカ・タイ・ミャンマーで信仰されている上座部仏教と、日本に伝わった大乗仏教があった。上座部仏教のベースとなった、お釈迦様の仏教は日本やスリランカにある教えとずいぶん違うのだ。

つまり日本に伝わっている大乗仏教と釈迦の教えは全く異なる。もちろん、どちらも素晴らしい教えだ。

では釈迦オリジナルの教えとはどういったものだろうか?

釈迦の仏教

日本に伝わっている大乗仏教は、仏様を敬いお経を唱え、神秘的な力によって救われると教える。善行を推奨している。

われわれ日本人は、葬式で坊さんがお経を唱え、天国を信じ、墓参りに行って、お盆で祖先を迎える。さらには密教の秘術で悪霊を退散させる。日本は神道に加え、中国から伝わった仏教と儒教が混在している不思議な国である。

一方、釈迦の仏教は修行を重視している。煩悩は瞑想を中心とした己の修行でのみ消すことができるとお釈迦様が説いたからだ。

また、お釈迦様は輪廻を断ち切る手法として何もやるな、善行も悪行もするなと説く。善悪に絡まず行わず、修行によって業を消すのである。

なんだか、この世の欲を断ち切り、未練全てを消し去れといわれているようだが、資本主義国家では実現し難い。いや、善悪考えずビジネスに徹するというのなら日本に合っているか。

釈迦の教えは摩訶不思議なオカルトではなく、非常に論理的で、悩みを合理的に解決するための教えであった。われわれが想像するような神秘的な宗教ではなく、思考の流れを理性的に説く哲学である。

スッタニパータとは

スッタニパータはブッダの最初期の教えが記されている仏典である。兎にも角にも、これを読まないと話にならない。

中村元の著書、原始仏教によると、仏典の中でスッタニパータは最も古く、ブッダの思想や最初期の生活を最もリアルに伝えているだろうと学者は推定している。スッタは経典、ニパータは集成という意味である。と書かれている。(中村元 原始仏教 P70)

つまり、スッタニパータを理解することで、最もブッダに近い初期の教えの集大成を学ぶことができるのだ。岩波文庫から「ブッダのことば スッタニパータ」という本が出ているから読んでみるとよいだろう。

悟りを開き涅槃に到達する

釈迦の説く「安楽」とは、悟りを開き涅槃に到達することである。これは煩悩を断ち切って、生まれ変わりのループから外れることを意味する。なぜ、生まれ変わりから外れる必要があるかというと、生きることは苦しみだからだ。

私達は、現世で様々なことに悩まされる。老い・病気・暴力・競争・比較・承認欲求など数え上げればキリがない。特に死は恐ろしいものだ。しかし、ブッダは死を乗り越える方法として、空を教えている。

空とは

スッタニパータには「つねによく気をつけ、自我に固執する見解を打ち破って、世界を空なりと観ぜよ。そうすれば死を乗り超えることができるであろう。(スッタニパータ 一一一九)」と記されている。

一体空とはなんなのか?空の概念を中村元氏が著書、原始仏教で解説している。

「スッタニパータの中に「空」という教えがでてきます。それは結局万物は無常であって、いかなるものも固定的な永遠の実体を持っていないわけです。固定的な実体がないということは、実体が変化しているということです。その実体がないことを「シューニヤ」(Sunya)ともとのことばでいったわけですが、これを中国、日本の仏教では「空」と訳して使っているわけです。実体がない。それなのに現にわれわれが経験するようないろいろな姿があるではないか。この問題を追求するとやがて因縁の教えになるのです。いかなるものも因縁が集まって、無数に多くの原因や条件が働いて、そして現にわれわれが見るとおりの世界ができ上がり、われわれの生存が成立している、その理まで見通すのが空の教えなのです。(中村元 原始仏教 P197)」

つまり、心も人も移り変わるのであり、苦しみはあるが実体ではない。空とは、姿があるものでも実は実体がなくて、色や形などの構成要素のみがあるだけだ、実体がないものに執着する必要はないということである。

ブッダの瞑想法のやり方

悟りを開いたブッダは、瞑想を推奨した。瞑想とは何かというと 、今を意識して心の流れに気づくことだ。しかし、どうせならブッダがやってた瞑想法を知りたい。

ということで「ブッダの瞑想法」という本を読んでみた。この本にはヴィパッサナー瞑想というブッダの瞑想法のやり方が書かれている。超簡単に方法を紹介すると以下。

  • 歩く瞑想:歩行するときに、「右」「左」と意識する
  • 座る瞑想:腹部の動きを観察。「膨らみ」「縮み」を意識

心の想念に気づき、そのままを認め観察する。ありのままの真実に気づくことによって妄想の世界を捨てる瞑想法とのことだ。

ヴィパッサナー瞑想をやってみると、今に意識が向かうから、過去や未来の妄想が薄れるような気がした。

妄執

妄執(もうしゅう)を友としている人は、この状態からかの状態へと長い間流転して、輪廻を超えることができない。妄執(もうしゅう)は苦しみの起こる原因である、とこの禍いを知って、妄執を離れて、執著(しゅうじゃく)することなく、よく気をつけて、修行僧は遍歴すべきである。
(スッタニパータ七四一)

妄執は、いつわりを示す「妄」の字と、とらわれる意味を示す「執」が入っている。そのまま訳すなら「いつわりを離さない状態」となるが、物事に深く思いをかけてとらわれるな、つまり執著をするなと書いてあるので、この場合は「存在しないことに囚われている状態」を示す。ブッダは「妄想にとらわれるな」と説いているのだ。

足るを知る

足ることを知り、わずかの食物で暮し、雑務少なく、生活もまた簡素であり、諸々の感官が静まり、聡明で、高ぶることなく、諸々の家で貪ることがない。(スッタニパータ一四四)

人間は感情のコントロールができない生き物だ。暴飲暴食、承認欲求によるSNSでの暴走、お客さんに対する失言。感情が暴走したばかりに取り返しのつかない人生を送るはめになった人は沢山いるだろう。

足るを知ることで、自制し欲の暴走を制御できる。

お釈迦様の言葉に物申す

仏教聖典によると「極楽の人々は苦しみを知らず楽しい日を送る」という。楽しい日ばかりだったら、楽しい日が分からなくなると思うのだが、どうなのだろうか。

煩悩は欲(欲、執着)だというが「煩悩を捨てたい」と願う執着が、すでに欲なのだから煩悩を捨て去ることは不可能である。無欲も欲も常識の範疇で味わえばよいのではないかと思う。

お釈迦様は煩悩を捨てよというけれど、煩悩は刺激なのだから、適度に煩悩があった方が退屈せずに済むし、煩悩のおかげで単調な作業に変化を与えて楽しむことができる。

そもそも、お釈迦様の教えを現代社会で実現しようとしても無理である。しかし、釈迦の教えをまるごと取り入れるのではなく、必要だと思ったところを抽出し、生活の中や思考に馴染ませて、少しでも苦悩を取り除くことはできるかもしれない。

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