シャルトル大聖堂にある「聖母マリアの聖衣」とは

シャルトル聖堂は、九世紀、西フランク王国のシャルル一世(カール大帝)から寄進された「サンクタ・カミシア」というチュニックを所蔵していることで知られていた。このサンクタ・カミシアが聖衣と言われている。

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シャルトル大聖堂

フランス・ゴシック建築の最高峰といわれる世界遺産が、パリの南西80キロメートル、シャルトルの街にある「シャルトル大聖堂」である。1979年にユネスコの世界遺産に登録された。

高さ100メートルを超える二基の尖塔が天高くそびえ、内部には総面積2000平方メートルのステンドグラスが施される。大部分は1194年から1220年の間に建設された。

その青い光は「シャルトル・ブルー」と呼ばれ、聖堂内を神々しく染め上げる。キリスト教徒で文字を読めなかった者は、ステンドグラスに描かれた聖書の物語を見て、神を身近に感じていたという。

シャルトルの地

シャルトルの地はキリスト教伝来以前から聖地とされていた。湧き出る泉が大地のエネルギーとみなされ、ガリア人に信仰されていたのである。泉は大地から湧くエネルギーの象徴であり、自然の霊魂のほとばしりであるとも信じられていた。

その後、キリスト教が伝わり影響力を強めると、大聖堂が建設されることになった。やがて聖母マリアにちなむ祝祭日に、多くの巡礼者が訪れはじめる。シャルトルは、聖母マリアの崇拝の場となった。

シャルトル大聖堂がマリア信仰の中核地になった理由は、ここに、一枚の布が保管されていることからだ。この布を拝もうと、中世には巡礼の列が絶えることがなかったという。

聖母マリアが着ていた「聖衣」が保管されているということで、人気を博したのである。

マリアの着衣の歴史

聖母の着衣は聖櫃に厳重に保管されており、フランス革命時まで開封されたことはなかった。

数百年ぶりに開けられた聖櫃から出てきたのは、ベールと大きな布だったという。1194年の大火の折も、聖堂に住み込んでいたキリスト僧たちは、命をかけてマリアの着衣を守ったのである。

だが、その後、権力者たちの手によって、ベールや布切れは少しずつ失われていく。お守りになると信じられたのだ。その結果、現在ではほんの断片しか残っていない。

真相

カール大帝の寄贈ではなかった説

聖衣は876年に西ローマ帝国のカール大帝より寄進されたという。しかし、このいい伝えに関しては、極めて信憑性が低い。カール大帝は寄進したとされる八七六年~より以前の八一四年にすでに亡くなっている。実際はその息子のカール二世が寄進したものではないかといわれている。

聖衣がつくられた時期

科学的な分析が行なわれた結果、聖衣はおよそ2000年前にシリアでつくられた布であると判明。キリストや聖母マリアが生きていた時代に着られていたという可能性は高まったが、実際に聖母マリアが着ていたという証拠にはならない。

いずれにしてもマリアの着衣は地元産業の生命線である。巡礼者を増やし観光業を活性化させるには、マリアの聖衣を残すことは必要なのだ。

オーパーツが展示されていた場所

シャルトル大聖堂:16 Cloître Notre Dame, 28000 Chartres, フランス

参考文献

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