なぜ私たちは自分を卑下するのでしょうか?自分を卑下する人は「自己否定」をしているわけですが、突き詰めていくと自己否定は「判断欲」の一つだということが分かります。
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目次
自分を卑下するのは「承認欲求」のひとつ
自分を卑下する人は判断欲が強いです。判断欲とは、ある事柄について独断で決めつけて気持ちよくなること、相手(本来の自分)の意見を無視し一方的に断言(本来の自分を否定し)することで快感を得ること、つまり承認欲求の一つです。
わかりやすくいうと「マウントがとれる他人がいないから、自分に対しマウントをとっている」状態です。
自己否定は「自分にマウントをとっている」状態である
自分を卑下するということは、自分にマウントをとることだと言いましたが、その仕組みをご説明します。
一例をあげてみましょう。
- 「私は頭が悪い」→ 私に対して知のマウントを取った!勝ったぞー!
- 「どうせ私はブスなんだ」→ 私に対して美のマウントを取った!
- 「貧乏な私」→ 私に対して富のマウントを取った!
という仕組みです。人間は、なんと他人だけじゃ飽き足らず、自分に対してもマウントを取る生き物なのです。
なぜ、人間はこのような悲劇を起こすのかというと、
自分を肯定できない(自分の存在意義が分からない)
↓
誰かを否定することで、自分の存在を肯定できるかも!
↓
そうだ!他人や自分を否定しよう!
という思考回路を持つからです。
承認欲求は人間だけでなく、犬(犬の場合は自分以外にヤキモチをやいて噛み付く)などにもありますから生物の本能のようなものでしょう。
自分を卑下しないようにするには?
これまで述べたことを要約すると「自分を卑下するのは、マウントをとりたい心理からきている」とお話しました。物言わぬ自分に勝手な判断を下し、勝利することで快感を得ている状態です。
判断欲は、あらゆることを否定する習慣から発生しています。
つまり「他人を否定しないこと、他人を認める習慣を持つこと」が、自己肯定にもつながり、自分を卑下することからも解放されるのです。
具体的な方法
それでは、具体的にどのような考えを持てば、あらゆることを否定せずに済むのでしょうか。
その 1:人は人、他人は他人と明確な境界線をひくべし
京都大学名誉教授。京都学派の創始者である西田幾多郎の哲学に
他人は他人、自分は自分、人は人、我は我也
という言葉があります。この言葉からは、己の道を追い求めた強い信念が伝わってきます。
比べないことは、自分自身としっかりと向き合うことです。比較しないということは、不毛な競争をしないということです。
明確な境界線によって自分と他人を比較するようなことが無くなり、他人を攻撃(否定)することも無くなるでしょう。
その 2:自分の正義を他人に押し付けぬこと
正義感も承認欲求の一つです。なぜかというと正義とは「自分の価値観を押し付けて守らせる」ことでもあり、ある意味マウントを取って快感を得ているからです。
原始仏教の考え方には、善悪はありません。実体がないものに対して勝手な意味付けをしているのは人間だけです。美しいものも、醜いものも、倫理も悪も犬や猫には判断できません。勝手な意味付けをして苦しんでいるのは人間だけです。
その 3:意味づけをしないこと
きっと動物には、人間が感じていることに対して、以下のように見えるのではないでしょうか。
- 美人 → 人間
- ブサイク → 人間
- 馬鹿 → 人間
- 天才 → 人間
- 肥満 → 人間
- 貧相 → 人間
- 成功 → 行動
- 失敗 → 行動
- 時間 → 運動
- お金 → 紙、金属
- 宝石 → 石
- 石 → 石
- ひまわり → 花
- バラ → 花
このように考えると、人間よりも動物のほうが悟っているように感じますね。
自分勝手に意味づけせず、あるがままを見ること。その習慣を持つことによって判断欲がなくなり、勝手な自己判断によって自分を悪いように卑下することもなくなるでしょう。
参考資料
- 石川県西田幾多郎記念哲学館
- 原始仏教 中村元
- スッタニパータ ブッダ
- 反応しない練習 草薙龍瞬
- 仏教聖典
- 集中講義 大乗仏教